2012年12月3日月曜日

発達障害という「ラベル」

日常の臨床では、精神医学診断について日々考えないことはない。
特に発達障害における診断は、その基準も含め大いに議論する余地が残されていると思う。

他院からの紹介状にも「広汎性発達障害」「アスペルガー症候群」という文字が立て続けに並んでいる。そして、様々な悩みを診断名が列挙された紹介状とともに抱えてやってくるこどもと親たちの姿は、疲弊しきっているように映る。

自分の理解を越えているからといって相手を安易に「発達障害」とラベリングするのは、やめましょう。

先日の保護者向け講演会でも話してきたことだが、発達障害診断の昨今の問題点としては、診断が免罪符のように取り扱われる可能性、本来ある問題点(親子の関係性、虐待やいじめなどの告白できないトラウマ体験など)を発達障害診断がマスクしてしまう可能性があること、などである。

発達障害診断が、いつのまにか周囲にとって都合の良いラベリングと化しつつある危険性を常に感じている。ここまで発達障害が「ブーム」になる前は、人の思考や行動について様々な視点より多面的な評価をしていた気がするのに、最近は「発達障害」を落としどころとしてしまっている風潮があまりにも大きくなり過ぎた感が否めない。

「発達障害」というビッグワードが、家族や支援者など周囲の評価をむしろ浅薄にさせてはいないだろうか。貼られたラベルを通して物事を見る時、それはフィルターの役割と化し、障害特性だけを恣意的にクローズアップして見るようになる。人の感情や思考、行動はそう単純化して推し量れるものではない。

こどものメンタルヘルスに関する学会も発達障害ばかりのエントリーが目立つ。これは発達障害支援における社会的要請の高さの反映でもあろうが、こどもたちが抱えている諸問題は他にも多く存在している。
こどもたちの評価診断援助をする立場が何を議論すべきか、今一度見直す時期でもあるのではないだろうか。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私は恐らく医者も意見が分かれる程度の自閉症スペクトラムの傾向を持つと自覚している40の男性です。
全く仰る通りだと思います。
長年妻とのコミュニケーションのすれ違いに悩んでいましたが数年前に妻から、得心がいった、あなたはadhdなのだ、スッキリした。と告げられました。
以来、本当に互いの内面について意見を交わす類いのいざこざはなくなり、具体的に家事を手伝わないとかそういう衝突しかしなくなりました。
この事は妻にとっては都合のよいことなのでしょうが、私はもうこの溝が埋まることは無くなったと感じて、二人の今後に希望が持てなくなっています。
先日テレビで自閉症スペクトラムが新生児の15%に認められ、ある自治体では早期にその治療を行うプログラムが開始されていることを知りました。
果たして15%にも登る人間の持つ特性を障害として治療してしまって良いものなのでしょうか?私は少し薄気味悪いものを感じています。