2012年8月11日土曜日

いじめの構造

「いじめ」という社会現象について、いつかまとめておきたいと思っていたが、 業務に忙殺されていて・・・ようやくblogを更新できそう。

いじめについては大津市の事件を機に、メディアなどを通じ様々な形で報道されている。
しかし、いじめについての多くが「加害者」と「被害者」の二項対立で語られている。
いじめという現象は、もっと複雑で巧妙な「構造」があることを、理解すべきであると思う。
そして、私の臨床経験も踏襲し、被害者、加害者双方の語り合いより導いた持論を述べたいと思う。

痛みっていうものを分からせるには痛い目に合うことが必要だ、という理屈に基づいて叩く殴るを容認しようとしていたら、それは全く違う。身体的、心理的暴力いずれも繰り返し受けることにより、それによる痛みは徐々に麻痺していく。
度重なる暴力を受け続けると、受ける痛みを感じないようにする機制が働くのである。その状態、状況が長ければ長いほど、他者が受ける痛みを知ることはできなくなる。いじめ加害者は、どこかで支配的な暴力を振るわれていた、もしくは振るわれ続けている可能性がある。

いじめ加害者の多くは、他者の痛みを分かることについては麻痺しており、支配服従構造の優位性を確保することで強い快感を得ている。それは、自らがそのような経験をどこかで強いられている、もしくはそうされてきたからである。

いじめ加害者の最も強い快感である、支配服従構造を保持するために、加害者は扇動者を準備する。扇動者の主な役割は、仲裁者のブロック、被害者を間接的に貶める根回し、傍観者の監視、である。

教員がいじめの構造に加担している場合、加害者よりもむしろ扇動者に唆されていることが多い。加害者が扇動者に、教員をコントロールするよう指令する。扇動者に口達者が目立つのはそういうことである。
「本人も実はいじられてうれしいんすよ!」なんて教員に吹き込むのは、多くはいじめの構造を強化している扇動者である。加害者は、分が悪くなったら扇動者 に責任をなすりつける。例えば「俺はやってないよ、あいつがいじっていたんだから、自分で言ってただろ?」というように。鳥肌の立つほど、実に巧妙な構造となっている。

そして、「もういい加減にしろよ!」と止めようとする仲裁者に、まずは扇動者が立ちはだかる。仲裁者の秘密や噂話を持ち出したりすることが多い。「へえー、あれ、言っちゃっていいんだ?」など。ない場合は勝手にねつ造されることもある。
いわゆる「ゴシップ」の流布を盾に、仲裁者の仲裁は封鎖され、傍観の立場に回される。こうやって、いじめの構造が徐々に許容空間となっていく。

いじめは、この巧妙な構造が無くならない限り、絶対に無くなりはしない。だから、一人ひとりがやれることは、ただ、被害者を即座に救済することに尽きるのである。
この構造を理解していれば、加害者を厳罰に処しても、いじめは無くならないことが理解していただけるだろう。この構造はいつでもどこでも流動的に隠蔽的に構築されるのだから。

いじめそのものを無くす究極的な方法は、加害者を罰することではなく、構造を完全に破壊することである。

0 件のコメント: