2012年5月12日土曜日

児童虐待

虐待と発達障害の因果関係について時々質問を受けることがある。
私としては、虐待によって発達障害になるということではなく、
虐待による影響が、発達障害の特徴の一部と非常に類似している、
と理解している。

そこで、虐待についてさまざまな思いを巡らせてみる。

親が子に虐待をしていると感づいた時に、それを指摘すると虐待がさらに悪化するのでは、と時々聞かれる。しかし、それは自殺をほのめかしている人に刺激すると自殺してしまうのでは、という誤解と同じである。テーマになっていることを避けることは何の助けにもならない。

虐待者は、虐待をしていることをどこかで恥ずかしく情けなく感じている。だから知られたくない、隠したいと思う。これではいけないと思いつつ止まらない。 どこかで止めてほしいと願っているかもしれない。「あなたのしていることは、客観的にみると虐待なんです」と指摘されることで、止めてくれるかも、止められるかもしれないと不安が少しだけ和らぐこともある。

初めて虐待していることを指摘する時には、その行為について「いけません、だめです」などと咎めるような伝え方をせず、行為そのものについて「虐待である」と言及することが重要である。
虐待は「してはならない行為」と多くの人が知っているわけだから。
そして少しずつ、虐待に至る背景を語ってもらえるとよい。

児童虐待が減少しないのは、多くの誤解があるからだと思っている。虐待だと指摘すると悪化するのではないか、という誤解。この誤解のために、多くは見て見ぬふりをされてしまう。そして、虐待は徐々に進行、悪化する。指摘しても「しつけです」と答えるかもしれない。しかし、伝え続けること。

児童虐待について、虐待当事者に直接指摘するのをやはりためらう場合も多いだろう。
こどもだったらすぐに児童相談所へ通報してほしい。匿名性は保持される。結果、虐待ではなかったとしても、見逃す罪よりは全然よいと思っている。
しかし、日本の文化として、隣近所の家庭状況には口をはさむべからず、という暗黙の了解みたいなものが未だ根強く残っている。おそらくは、口を挟むと陰湿な報復があると考え、怖いのである。

それでも、民間人からの児童相談所への通報は増えた。これは啓発のおかげだろう。しかしながら、事実を知りながらなかなか通報しない(できない?)ところがある。それは「学校」。

児童虐待を発見する機会の多い学校は、なぜなかなか通報しない(できない)のか?誰が見ても・・・といったところでようやく通報に踏み切る、といった感が否めない。私なりの憶測はいろいろあるが、1つは児童相談所と警察に「たらいまわし」されるということ。
虐待を受けている虞のある児童生徒を児童相談所に通報しても「警察で対処しろ」と言われ、
警察に連絡すると「学校で対処しろ」と・・・
このような話は多方面から聞かれ、 これでは、何のための通報義務か分からない。
 
また、虐待をうけているこどもに対し、「どうして話してくれなかったの?」「逃げればよかったのに」と言う人がいるが、虐待を受けている状況では
「話せない、逃げられない」のである。
話せばもっとひどい仕打ちにあうかも、でもそれは自分がいけないからだ、という認識にさせられるからであり、だからこども救済をとにかく優先する必要がある。

安全で安心な場所へ保護した後に、虐待環境で育ってきたこどもたちは、我々が暮らす世界が異質なものに思えるようだ。大多数の人たちが理解している慣わしなどを伝えても、特にネグレクト児においては「何で?」「なにそれ」とピンときていない。
虐待が社会性(関係性)の育みを明らかに阻害していることがわかる。

虐待環境から保護された「こちらの世界」で暮らし始めると、当初は全てが新しく感じられるようである。そして、今まで生活してきた世界こそ異質なものであったことが、まさに目覚めるように分かる時期がくる。その時期に「今まで何をしていたんだ・・・自分は・・・」と一過性に不安定な状態になる。自傷行為や自殺企図、興奮やパニック・・・などで示されることが多い。
この時期は、初期介入と同様、治療的介入をインテンシヴに行う必要があるだろう。
今までの虐待生活と安心した現実生活の折り合いがつけられず、混乱のさなか不安がピークに達している。自分の人生経験が全く価値ないものだったのだ、というネガティブな思考に襲われる。
支援者は幾度となく、「こちらの世界」は安全であり、あなたを受け入れる準備はできていることを伝えていくことが大切である。
そして、もしかしたら安全かもしれない、という感覚が湧きあがってきて初めて、虐待について口を開き始める。ポツリポツリと・・・。
私は一時保護所での診察を行っていたが、児相職員が「初めて聞きました、この子から虐待の内容を・・・」と時々驚かれたりすることもある。

虐待を受けたこどもたちの、心の傷は、つねに回復の可能性を持っており、その機会と支援があれば元来ある「レジリエンス」が働くだろう。回復には時間がかかり、経過としてはらせん状に回復するイメージである。後退しているようだがきちんと前へ進んでいる、というような。

最後に、学校教員へお願いしたいことがある。
虐待されているかもしれない児童生徒が、もし、先生にそのことを打ち明けてくれたら、打ち明けたこと自体を大いに評価し、褒め称えてあげてほ しい。
思春期頃のこどもだと、伝えたことが相手への重荷になってはしないかと罪悪感を持ったりすることも多い。その点も理解して頂きたい。

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